連続企業爆破事件の重要指名手配犯、桐島聡容疑者を名乗る男が、2024年1月29日、入院先の病院で死亡しました。
※桐島聡の入先病院がどこかについては、こちらの記事をご覧ください。
桐島容疑者は数十年にわたり、藤沢市内の工務店で「内田洋」の名前で住み込みで働きながら潜伏していたとみられています。
70歳で死亡した桐島容疑者ですが、現在の画像はあるのでしょうか?
58歳時の写真が見つかりましたので、指名手配写真と比較してみます。
【画像】桐島聡の現在の写真は?指名手配写真と比較して検証
桐島容疑者とみられる「内田洋」の知人は、
「『うっちー』という名で、みんな親しくしていた。
イベントとかライブがあったりすると、盛り上げたりとか、音楽がすごく好きな人。静かに飲んで時々音楽に合わせて軽く踊ったりとか」
引用:TBS NEWS DIG
と話しています。
こちらが、2012年9月に撮影された58歳の時の画像。
集合写真の切り取りと思われるので、警戒することなく写真にもおさまっていたことに少し驚きを覚えます。
1973年撮影(19歳)とされる手配写真と比較してみます。
これは、身近にいてもわからないですね。
確かに鼻はそのままですし、ほうれい線など言われてみれば同一人物だなとわかりますが、印象がかなり違います。
検証してみると、手配写真は、
- メガネ
- 髪型
が特徴的でインパクトが強いため、そこが違うだけで別人と認識してしまう気がします。
今回路上で倒れた際に介抱した方によると、手配写真の3分の2くらいに痩せてガリガリだったということなので、尚更わからなかったと思います。
桐島聡とは
- 名前:桐島聡
- 生年月日:1954年1月9日
- 死亡:2024年1月29日
- 出身:広島県深安郡神辺町(現・福山市)
- 高校:広島県立尾道北高等学校
- 大学:明治学院大学法学部
1970年代のアナーキズム系新左翼過激派である東アジア反日武装戦線「さそり」班のメンバー。
1975年5月19日に、東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人が逮捕されたのを契機に逃亡。
2024年1月25日、偽名で入院していた神奈川県鎌倉市の病院で、「自分は桐島聡だ」と名乗り、警視庁公安部によって身柄を確保。
身元の確認を急いでいましたが、1月29日、入院先の病院で死亡しました。
※桐島聡の入先病院がどこかについては、こちらの記事をご覧ください。
手配罪名は、
爆発物取締罰則違反
直接の容疑は、この爆破事件です。
- オリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所爆破事件
1975年4月19日 死傷者なし
しかし、その他に次の事件に共謀・実行で関与したことが認定されています。
- 鹿島建設爆破事件
1974年12月23日 死傷者なし - 間組本社ビル及び大宮工場同時爆破事件
1975年2月28日 本社ビル9階爆破で1人が骨折・熱傷等 - 間組江戸川作業所爆破事件
1975年4月27日 1人が頭部外傷等 - 間組京成江戸川橋工事現場爆破事件
1975年5月4日 死傷者なし
まとめ
この記事では、桐島聡容疑者の現在の画像についてお伝えしました。
身柄確保された70歳時の写真はありませんでしたが、58歳の頃に撮影されたものはありました。
指名手配写真とは印象が全く違い、気づくのは難しかったと思います。
桐島容疑者が死亡してしまいましたが、事件や逃亡生活の全貌は明らかになるのでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
※桐島聡の入先病院がどこかについては、こちらの記事をご覧ください。