手足が不自由ながら、口にくわえた筆で素敵な詩や絵画を創作する星野富弘さんが、2024年4月28日に呼吸器不全で亡くなりました。
星野富弘さんには妻がいらっしゃいますが、その馴れ初めは感動的なものでした。
この記事で、画像とともにお伝えします。
星野富弘のプロフィール
- 氏名:星野富弘(ほしの とみひろ)
- 生年月日:1946年4月24日
- 没年月日:2024年4月28日(78歳)
- 出身:群馬県勢多郡東村(現:みどり市)
- 職業:詩人・画家
- 最終学歴:群馬大学教育学部体育科
星野さんは自然豊かな東村で育ち、少年時代の趣味は器械体操と登山でした。
星野さんの小学校時代からの親友であり、富弘美術館の館長を務める聖生清重さんは、
少年のころから運動神経が人一倍優れていた星野が、”神技”を連発したり、片手倒立で前進、後退するシーンは、私の記憶の中にいまでも鮮明に残っている。
と話しています。
運動が得意な星野さんは、群馬大学教育学部保健体育科に入学。
1970年に卒業後し、高崎市立倉賀野中学校の体育教師になります。
しかし、赴任して2ヶ月後の1970年6月17日、器械体操のクラブ活動の指導中に前方宙返りの模範演技を見せた時に事故が起きます。
宙返りに失敗した星野さんは頭から転落。
第4頸椎(けいつい)骨折、頸髄(けいずい)を損傷し、手足がまひしました。
寝たきりになった星野さんは失意に沈み、寝泊まりして介護をしてくれる母に八つ当たりをする毎日。
しかし、入院して2年目に、転院した重い病気の少年のために寄せ書きをすることになり、「文字を書けるようになりたい」と思うようになります。
口にサインペンをくわえて練習を始め、手紙が書けるようになった星野さんは、花を描くようになり、やがて絵の具を使って本格的にスケッチブックに描き始めます。
9年半にも及ぶ入院生活後は、故郷で数々の絵画や詩を制作。
その作品は感動を呼び、世界中にファンがいます。
【画像】星野富弘と妻(夫人)の馴れ初めは?
星野さんが結婚したのは、1981年4月29日。
奥様は、昌子さん(旧姓:渡辺昌子)です。
出会いは、星野さんが入院して2年半後の1973年1月。
当時は星野さんのお母さんが病院のベッドの脇に寝泊まりし、息子の手足となって看病をしていました。
そんな親子の手助けのために、キリスト教会の紹介でやってきたのが、昌子さんです。
星野さんの手記『愛、深き淵より』の中に、出会いの様子が書かれています。
「私は前橋キリスト教会に通っている渡辺と申します。舟喜牧師からいつもお話をきいています」 母は買い物に出かけていて留守だったので、かわりに彼女は私に蜜柑を食べさせてくれると、まもなく帰って行った。
そうして毎週土曜日に欠かさず来るようになった昌子さんですが、それがだんだん週に2度3度となっていったそうです。
1974年に星野さんはキリスト教の洗礼を受けていますが、昌子さんの影響は大きかったのではないでしょうか。
昌子さんも星野さんからもらった挿絵を大切に額に入れて飾るなど、次第に惹かれ合っていった2人。
そして数年後、星野さんは昌子さんにプロポーズします。
その時の様子を『愛、深き淵より』から抜粋します。
「渡辺さん、‥‥結婚しようか‥‥。」 車椅子のうしろで、渡辺さんの顔は見えませんでしたが、私の口から、思わずそんな言葉がもれていました。
「‥‥‥。」 世界中から、急に音がなくなってしまったように、静かになりました。窓の外は、銀杏の葉がひらひらと散っています。空に張り詰めてあった黄色いステンドグラスが、粉々にくだけて、地上に降っているかのようでした。
「わたしも考えていたんだけれど、いまはまだ、はっきりと返事は‥‥。でも、そのことを神さまにいのっているわ。ふたりで祈りましょう‥‥。」
渡辺さんは、車椅子のうしろから、手のひらで私の顔を包むように抱いて言いました。黄色いイチョウの葉が、蝶々のように風に舞い上がり、夕日を浴びてきらきらと輝いていました。
引用:『愛、深き淵より』
お2人が静かに敬いあい、お互いを大切に思っている様子が伝わり感動的ですね。
そうして、初めて出会ってから8年後の1981年、2人は結婚。
昌子さんは、星野さんの生活はもちろん、作画の手伝いなども献身的に支え続けました。
まとめ
この記事では、詩画作家の星野富弘さんの妻、昌子さんについてお伝えしました。
信仰を共にし、尊敬しあっていたご夫婦の姿に心が温かくなりました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。